神と腹痛と科学

諸君お気づきであろうか?神や真理というのは病める時も健やかな時も我々の理と無関係に在るのである

先日腹痛に見舞われた。正露丸の瓶は空であった
幸い自宅であったため好きなだけトイレの住人と化すことはできたのだが、私は襲い来る痛みの波をただただ耐えるほかなかったのである

腹痛というのは内臓痛であり、外傷などによって引き起こされる痛みとはプロセスが異なる。格闘家でも腹痛は耐え難い痛みであると聞く。つまりとても痛い

正露丸はない。科学は私を見放した
私は腹部を出来る限り温め、チャント*1を唱え、神に祈った

するとだんだんと腹痛が引いていくではないか
私は精神を持ち直た。神のことは忘れた



これでも私は一応科学を修めた人間である。ゆえに似非科学というのは鼻で笑うような対象であると考えている

しかし、もしも腹痛下、トイレにたまたま「おなかに効くお地蔵」がいたらどうしただろうか
多分拝んだと思う。拝み倒したと思う。現に神に祈ったし

今回は腹痛であったが、これがもし癌であったら私はどうしたであろうか

療法(正露丸)は尽きた。そしてがんが治る水なる怪しげなものを売りつける輩が来た
恐らく私はその水をがぶ飲みするだろう。私は腹痛で神に祈る人間である。私はその似非科学を使うだろう。普段であれば鼻で笑ったその水を

そんな時も神や科学と言ったものは、私とは無関係に在る
病める時は科学を忘れ神に祈り、健やかな時は神を忘れ科学を信じ。

もしかすると、そんな私を神や科学はどこかで見下ろしているかもしれない。それはさすがに自意識過剰か




私という人間は痛いだ熱いだ苦しいだで真理というものを容易に失うが、それでも科学や神は在って
私という人間は病める時の言うことはあてにならず、ゆえに健やかな時も言うことはあてにならず、私という人間と無関係に神や科学はあるのです

当たり前のようであたりまえな話

*1:イタイノイタイノトンデイケ